かてごり
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2018年12月12日

ゆっくり、正気にもどらなければ

ゆっくり、正気に、もどらなければ

眼を潰す
posted by のら(NORA) at 02:03 | ハノイ ☔ | Comment(0) | 雑記(PILOW NOTES) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - ゆっくり、正気にもどらなければ
2018年12月07日

適度な距離を置かなければいけない現代の人間関係と噛み合わない私

適度な距離を置かなければいけない現代の人間関係と噛み合わない私


電車で話かけることも憚られる他人の密着が苦痛で吐き気がした。

知りたく話したく仕方がなかった。

人間嫌いという便利な呼び名をもらった。

私は人間が自覚のあるなしに関わらずその奥の奥を一緒に知ることが
好きでたまらなかっただけだ。

営業や教師にも保たなければならない距離はある。

中庸の意味がわからず適切な距離がとれず馬鹿丸出しで
近くに行って見て見えなければもっと接近して気づくと
気色悪い存在になった。

こんなだけどちょっとうまくやれすぎてやしないか?

年を重ねて何かが薄れて剥き出しの
もっと知りたいを抑えられているのではなく弱まっているのではないか。

気違いが気気違いとして生きて死んでいくのに何を
今さらためらい遠慮していくことがあるだろう。

年取って図太くなるのなら何かのために私のために、
私の中の何かのために図々しくありたい。

うまくやれてるわけがねえ何がうまくだクソが。

クソったれが。

死んだから静かになりましためでたしめでたしって
笑えるほどボケるにはまだまだ死ぬほど時間が要る。

もうちょっとで薄っぺらくか弱い狡猾さがこの腐った何の
役にも立たないダメ人間にプラスティックのリボンくらいかけられてよさげだ。

ゴミ屑は誰にも聞かれず呼吸する。
posted by のら(NORA) at 03:48 | ハノイ | Comment(0) | 雑記(PILOW NOTES) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 適度な距離を置かなければいけない現代の人間関係と噛み合わない私
2018年12月05日

このために、ここにいるのかな

学生との毎日。
あれもこれも伝えてやりたくても、
戯けて時間を埋めていくだけ。
この距離が、私とすべてのものの距離なのだ、と知る。

posted by のら(NORA) at 00:02 | ハノイ ☁ | Comment(0) | ベトナムホーチミン便り(IN VIET NAM RIGHT NOW) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - このために、ここにいるのかな
2018年12月01日

ベトナムと無知の知、自己相対化

ベトナムと無知の知、自己相対化
どうしてもこのハードルが高い。
他国だとこれが完璧にできているわけでは、もちろんない。
一度もそれをしたことがないのだと思う。
戦後の日本の教育は自己反省をするよう仕向けられていたとは思わない。
国民性という、動物に気候が影響する仕様の差だろう。

私がゼロから物を作ることができるか自身に不安を感じるのとまったく同じように、この国の将来に不安を感じる。
どこかが折れないといけない。
がばんメンとたいセイだろうか?

たとえば学習途上の学生が無知を指摘されプライドをボキボキへし折られた後に、何を利することで、そのツケを回収できたと感じるかは、私が日本でも感じた、彼らの価値観の問題であって、彼らが自身と向き合い向上することとは、直接関係がない。

非常に素朴な「子どもが憧れる人」のようなイメージを国民に持たせないように、街中の大手本屋が日本の個人蔵書家より少ない本しか書架に陳列できないのだろうか?
情報量が少ないと、恐ろしいことに、適切または自分が欲する選択肢を見つけるのに困るのではなく、選択肢を見つけることの意味をそもそも知らずに育つ。
ターゲットを設定せずに生きられる幻想。

親バカかもしれないが、この国で賢いガキは、みんな社会不適合な24時間ネットに繋がっていたい奴ばかりだ。

馬鹿を肯定する規則と習慣に飽きた。
自覚して乗り越えてこそのそれだ。
さて、何か変化を待つのと、こちらがこの国内で変化するのと、他国へ移動するのと、どれがどれだけ時間を要するか。





posted by のら(NORA) at 00:43 | ハノイ 🌁 | Comment(0) | ベトナムホーチミン便り(IN VIET NAM RIGHT NOW) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - ベトナムと無知の知、自己相対化
2018年11月26日

古巣

古巣

このSeesaaには足掛け10年お世話になっていることになる。
多謝。

友人に他のブログをすすめられながらも、結局、定期的に
他のウェブサイトでは吐けない、匿名性のもっとも高い、本当の
「日記」、または「記録」のために、こちらのサービスを使って
きた。

不満もある。
ログイン画面に表示される「おすすめブログ」は、10年間1回も
閲覧したことがないので、今後表示しなくてよろしい。

タイトルに「・・・・・・・wwwwwwww」のように書かれた記事が
6−8件ほど表示されているが、そんな白痴なブログを誰が閲読したがるのか。

まあ、小さいことだが、サービスなんてものは、いつでも、そういう小さいことだ。

タイトルについては、以上。


本当のサブジェクトは「私とあがり症」だ。

私に自覚があったのは、小学生の1年生以前。
幼稚園の頃からそれとなく、あった。
人前で歌を歌うのがとにかく嫌で、喋ることも、声の震えがさらなる緊張を呼び、
とてもではないが、私の小中高時代は、人前で何かの発表をさせられるような
状況を避けることを、他のすべてに先立って考えなければならないほど、ひどかった。

小学校の音楽の授業で「歌の試験」というのが、一生のうちもっとも大きな災悪だった。

年齢がそういった感覚を鈍くさせていくとすると、この歳まで生きながらえたことにも
多少の意味を感じざるを得ない。

先日、緊張する自分がいる状況は同じだが、偶然にそれを克服することに成功した。
義務感や責任感、その場の流れをすべて自分が作らなければならないと思うと、
自然と緊張を感じている暇がなかった、ということらしい。

大学の非常勤で日本語を教えているときに、40人前後の学生の前で、まったく緊張を
感じずに済んだのは、まったく、偶然のようにも思う。ラッキーだ。

ただ、今でも変わらないのだが、私は人前で「うまく」歌えないことを知っているので
歌いたくない、という気持ちが、小学生当時からあった。
喉と音声の生理的な都合によるので、いたしかたない。
そういった都合を無視して、誰でも歌えるはずだ、という強要に、心底辟易させられた。

歳とると、状況を選び取る権限を与えられるのだろうか?
若い人は、未だに、この選び取る権限を与えられないのだろうか?
なんだか、うれしいような、うれしくないような。

歌声のピッチは3音ほどしか使い分けられないが、聴力ではなく、聞き分ける能力には、
誰にも負けない自信がある。波の形の再現の方。
親に感謝。






posted by のら(NORA) at 01:10 | ハノイ | Comment(0) | 雑記(PILOW NOTES) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 古巣
2018年10月01日

ようやく見えてきた、吹けば飛ぶような何か

ようやく見えてきた、吹けば飛ぶような何か

ようやっと、という感じか。

   ※ ※ ※ ※

恩師が言われていた、自分を突き詰めて行くとそこで他人に出会うことがある、
それに似た何かを見た気がする。

元来、私の興味や関心は、凡そ私が他人の中に見たことがないほど、狭く
限られた範囲にしか及ばないものだった。

その興味や関心は、強烈な光を放つ「似たもの」の中で照らされ続けることで、
生来もっていた色味を失ったようだった。

興味を、関心を、無期限に放棄した。
リリースという言葉が、適当かもしれない。

まったく無関係の畑を踏み荒らし生き長らえることは、私が予想した以上に、
私の中のか弱い泥棒の精神を鍛錬することとなった。
家宅不法侵入の毎日。

門外漢であることから感じる罪の意識は、あの当時、特に過敏だったことを思い出す。

現在、門外漢であり続け、新たに門外漢であり始めることに、だいぶ慣れた。

もっと、新しいことに飛び込んでみたい、とも思う。

   ※ ※ ※ ※

そうして他人の領分にずかずかと踏み入り闊歩する中で、一見の客である私には何ら主張を許される
ない状況であるにも関わらず、私の行うコミュニケーションの所作が、
私の行う小さな事業の方向性が、マーケティングで強調される関数が、
すべてどこかへ収斂して行きそうに見える。

時期尚早だろうか?

残りの時間を想像するに、また何が起こるか正確には知らないために、
私は気づかないフリでこの状況に突入してしまって構わないようにも思う。

特に、ベトナムだからこそ、明確な目的の設定が、私の昔とオーバーラップして
、必要とされているようにも感じる。
外国人相手の商売では、適当でも構わないが、
ベトナム人相手の商売では、死ぬ気で考え提供できる最上のサービス以外に
意味があると、到底思えない。

人材関係は、特にそうだ。
付け焼刃の、規制緩和を追い掛けた、人身売買は
当人がそれを納得するのに十分なほど無知であったとしても、
その無知を啓発する前提から始めなければ、ならない。
啓発なんて、まったくもって糞食らえな言葉だが。

さて、彼らはどうなりたいのか?
私の中になく、彼らの中にない答えを作ることで
私自身がどこかへ向かって行くことになりそうだ。

日本語の教授?
最もシンプルに言語の教授だけを行った場合に、当人に何か
成長があると思う錯覚は、どこから生まれたのだろうか。




posted by のら(NORA) at 01:11 | ハノイ | Comment(0) | ベトナムホーチミン便り(IN VIET NAM RIGHT NOW) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - ようやく見えてきた、吹けば飛ぶような何か
2018年08月22日

メモリー不足はメモリーをゼロにすることで解決する

メモリー不足はメモリーをゼロにすることで解決する

不足:
いくつかのビジネスを同時に行うとき、どうしても私のよくない部分が、脚を引っ張る。
最近に始まったことではないのだが、こればっかりはどうにもならない。
ほとんど、つい今しがたのことでも、自分が何をしようとしているのか、思い出せない
ことが、以前より増えているようだ。

酒のせい?酒に親しむ前からそうだったから、ひどくなった原因はあっても、全部を
酒に帰するわけにもいかない。

さて、物事の多くは、根本的な解決よりも、応急処置により暫時片付けられることを必要としている。
なぜなら、根本的な解決を要するかどうか、解決を見てからでないとわからないことが多いためであり、
また、時間を長引かせることよりも、その刹那に処理されることに新しい局面が垣間見えることの方が
より、多くの冒険に出くわすチャンスを与えてくれるからだ。

私は、哲学を、鮮魚を三枚におろすようにすべきだと思う。
問題が入ったら答えは瞬時にはじき出されるべきであり、宿題とされるような問題は
すでにその人にとって問題ではない。

こう言うことで、多少なりとも、自分のもつマイナス面を、自分に納得させることができる。

ゼロにする:
使い切ってしまったことは、過去にそれほどない。
メモリーではなく、関心が枯れる瞬間、興味を一時的に燃やし尽くしてしまった瞬間は
ほとんど、生きているよりひどいことが待ち受けている。
満足など、何かに向かっている間にあるもので、無邪気に一点を目指してしまうと、
その後には、一時的にもせよ、何も残らない。
関心や興味に身を預けて生きていると、この一瞬が、絶命の一瞬となる。

さて、メモリーを使い切るとどうなるか。
極度の忙しさの中にわが身を放り込んでみると、長短の記憶の混同や混乱、感情の起伏の著しい乱れ、
簡単に言って、落ち着いてやらないといけない作業の不達成が連発し、余計な時間を浪費する。

私は過去に別種の、関心の消し去った瞬間を見たためか、このようなメモリーの枯渇状態を
異常に怯えて避けてきた。
今でも大学敷地内で行われていた、行動データを採るための実験に参加したときの、何とかテストで
「ちゃんとやってください」と言われたほどにメモリーに問題があったことを、恐怖とともに思い出す。

実際には、メモリーゼロになった場合には、何かが動き続けてくれている。
習慣かもしれないし、先に投げておいた時間差キャッチボールが先方で続けられているという、私
だけではない、複数人の間での連携かもしれない。

ある種の刺激が、特徴的な筋肉の収縮となり、それが「自然でない」表情と認識されるとして、
しかたがないじゃないか。

失禁による糞尿が衣類に染み出していているように思えて、それを隠すため、下着を3枚重ねて
履いていることが無駄だとわかっても、止めようもない。
まったく、しかたがないじゃないか。

そんなものを伴うにもせよ、私は、すべてのメモリーを毎日使い切るまで何か
くだらないビジネスに全身を捕まれていくしかない。

得てして、問題解決を迫られることというのは、瑣末なことであり、重大なことというのは
いつでも、軽やかに水上を滑っていく。

もっと、デザインすることにメモリーを消費したい。
それをするには、瑣末なことを私に代わり遂行してくれる人間が必要なようだ。

死中に活あり、ではないが、すべてのパラメータが落ち切ったときに初めて
諦めて身の力が抜け、余剰の何かができるようにも、思う。

くだらないビジネスをくだらないと思っているうちは、まだこの先に行けないような気がする。
楽しむこと。
現実逃避の意味ではなく、新しい何かへ進むには、それ以外に道はないようだ。
身の回りに起こるすべてのことを、自分の手で選択したからではなく、心から慈しみ楽しむという
そういう生き方は仏教に近いんだろうか。
快楽や笑いを肯定する場合には、どうも、宗教と相性が悪そうだ。


posted by のら(NORA) at 10:09 | ハノイ | Comment(1) | ベトナムホーチミン便り(IN VIET NAM RIGHT NOW) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - メモリー不足はメモリーをゼロにすることで解決する
2018年08月17日

ホーチミンの面白いところ

ホーチミンの面白いところ


随分長いこと何も書かずにいることには、それなりに努力が必要だと理解した。


身の回りの状況変化の最中には、特に匿名性が失われる機会がいくらもあり、望んでいることとは違うことの記録をしてしまいかねないため、しばらく待った。


まだサイゴンにいる。

ここが面白く、居心地が良いからだろう。


どう面白いか。

日常が落語そのものだからだ。


くだらないことを互いに怒っている人間同士が、滑稽で仕方なく見える場所。

人情噺に近いことが平気で毎日そこかしこで繰り返される。


ここしばらく金儲けの練習に時間を費やしてみた。

私はつくづく、金儲けに向かないと、再確認させられた。


その上で、金儲けを積極的にやめてみることにした。

なんだか、金儲けのスキルだの、会社の運営が上手くいくだの、食いたいから食って、うんこしたいからうんこする以上の何かでは、ないらしい。


俺には、早飯早糞を競う神経が備わっていないし、その美学も染み込んではこない。


何を事業として取り扱い、何ができるかが大事であって、金銭回収の術なんて、普通は恥ずかしくて人に話すことではない。

しなけりゃいけないから、してるだけのことだろう。


もちろん技術なしに餓死せずにいられるわけもない。

小学校から授業で経済的に自分を守る方法を教えてもらえれば良かったが、そんな甘えたことを言うのは、経済観念が希薄すぎる俺だけかもしれない。

国の仕組みについて学ぶ機会があるのであれば、個人の仕組みについて学ぶ機会があっても良かったと思うだけだ。


 ※  ※  


宵越しの銭を持たない愛すべき馬鹿が多くいるこの土地では、金額に還元できない何かが経済活動の対象や媒介と、まだまだ、なり得る。


その同じグラウンドに立つには、きれいな既製品の失敗しない会社の仕組みでは、ちょっと敷居が高すぎやしないか?

背負うべき看板がある人は、お気の毒様だが。

posted by のら(NORA) at 17:30 | ハノイ ☀ | Comment(0) | ベトナムホーチミン便り(IN VIET NAM RIGHT NOW) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - ホーチミンの面白いところ
2018年06月04日

しらっこい(しらじらしい)

しらっこい(しらじらしい)

ようやく少し分かった。

私は、しらじらしい、糞演技の、安っぽい
お涙頂戴舞台が、死ぬほど嫌いだ。

サラリーマンの生活にも少し慣れたので、敢えて
庇うとすると、全員が全員、そうではない。
運が悪いと、この「学芸会」を30にも40にも50にも
なって繰り返す、醜悪な人間に見舞うこととなる。

こういうねっとりと首筋にまとわりつく気持ちの悪い
感触が日本企業の典型的な組織内人間関係でないことを
祈りもしない。
そうだとしても、私には関係ない。

posted by のら(NORA) at 22:37 | ハノイ ☀ | Comment(0) | 雑記(PILOW NOTES) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - しらっこい(しらじらしい)
2018年05月22日

変わったこと、変わらないこと

変わったこと、変わらないこと


年のせいか、色々と今在りし自分と過去とを比較するようになった。

できるようになった、でもあるし、せざるを得なくなった、でもある。


変われないこと、かもしれない。

未だに、子どものように、絶対に許さないことが、変わらずにある。

本来、収益目的の事業に、どれがよくて、どれがよくない、などないはずだが、

何かどうしても納得がいかず、その結果受け入れられないことがある。


驚くほど私自身が回復したと、毎日の行動から驚かされる。

にもかかわらず、私は、事業の行く末、何に供すことができるか、を予想、期待、目標化できない

事業に我慢ならない性分を、未だに変えられない。


要するに、やっていて興味深い、面白い、何かこれまでにない新しいことを提供できる

もしくは、現状の問題に打開策を与えられるのでない、已然、組織の現状維持ないし、

組織のゆるやかな発展を維持できる事業に、「それで?」と訊きたくなってしまう。

安楽死のアナロジーから、こんなことには疑問を抱かないのかが不思議で仕方ない。


こんなことは、サラリーマンをやる以前からの想像の範疇を超え出ないことなのだが、

私には、それを地道に繰り返し時間を浪費する代わりに、得られる安心感を、得ることができない。

自己正当化が下手なままだと言えば、そうなのかもしれない。

簡単に言うと、文化的な洗練を伴わない事業に、将来どころか、現状維持の必要性を感じない。

こちらは癌のアナロジーだろうか。


新しい勤め先を探すときの、あの、苦い砂をジャックジャク噛む感じが、胃液の逆流を感じながらも、嫌いではない。

体内方位磁石は、ずっと同じように機能している。


メモ帳に書いては捨て続けた自立への道が、リアルに見えることは、これまでとは

変わった何かなのだろう。


十代の最初の頃にだけ聞いて疎かになっていたDJの今も続く深夜放送を、申し訳ないことに

Youtubeで聞くことが増えた。


飛び立つ前には、必ず足許を点検するとして、この飛躍がどれだけの規模のものか

自覚ができているくらいに冷静な自分に、少し安心させられた。


Good Bye、理不尽な服従とルール化が蔓延る、文化なき金儲けの世界。

Welcome、算数と習慣化だけでは開けない、不安でいっぱいだが我が子に誇れる、冒険の世界。






posted by のら(NORA) at 23:37 | ハノイ ☀ | Comment(0) | 表日記 (EVERYDAY LIVES) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 変わったこと、変わらないこと

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